マレー半島西岸に浮かぶ島ペナン。マラッカ海峡に位置するその島はかねてから交通の要衝として広く知られてきた。スルタンによる長い統治の後には、イギリスが進出。18世紀後半には植民地として支配をした。戦時中は日本軍が占領し、1957年になってマラヤ連邦に参加。現在は対岸のバタワース地区とペナン州を形成、マレーシアの中核都市の地位を築いている。日本のロングステイ財団も認める「長期滞在したい都市」ナンバーワンの島を目指した。
陸路ペナン島へ
ペナンへは、住まいのあるタイ側から鉄道で向かった。国境まで18時間の長旅。マレーシア領内パダンブサールで入国審査を終え、普通列車に乗り換えさらに2時間。バタワースに到着するまでほぼ1日を要した。バタワースの埠頭からはペナン島北東部ジョージタウン地区に向かうフェリーが運航している。片道1.2リンギット(約35円)。ペナンからバタワースに向けては無料としていることから、何らかの政策的な意図があるらしい。島へはほかに南部にあるペナン国際空港を利用するか、クアラルンプールからの高速バスに乗って2本ある海上架橋を通行して入る手段などがある。
フェリーの甲板から見たジョージタウンの街並みは、香港島のそれに似ていた。そびえ建つビル群。背後には緑で彩られた島の稜線。上空には無数のカモメが舞っていた。10分ほどで対岸に接岸。降り立った街並みの至るところで歴史を感じた。
マレー、中華、印が混在する歴史の街
宿に荷物を置き散策した。150年以上の歴史はあるという旧市街はマレー系に加え、中華系やベンガル湾系住民の混在する街だ。碁盤の目状に区画された一帯には低層階のタウンハウス型の建物が整然と立ち並び、豊かな色彩を放っていた。まるでハリウッドのスタジオのようだ。その合間を縫うように、ところどころに建つイスラム教のモスクや仏教寺院、ヒンドゥー教寺院。これらが放つ荘厳で鮮やかなアクセントが印象的だった。
1801年に創建されたというカピタン・クリン・モスクは、インド系ムスリムの寺院だ。「カピタン・クリン」とはインド人イスラム教徒カウダー モフディーンの尊称。18世紀後半に拡大したムスリム入植者受け入れのために建設されたイスラム建築寺院として有名だ。
レンガ造りのモスクではこの日、イスラムの「犠牲祭」が執り行われていた。神への祈りを終え、トラック数台に分乗され運ばれた子山羊約50頭。次々と屠殺場に運ばれると、祭りの後の「ご馳走」として解体されていった。
近くには、中国建国の父孫文が滞在したことがあるという記念館もあった。アジアで初めてとなる共和制国家を誕生させた孫文。華人が多く住むマレー半島やペナン島も革命運動の拠点であった。ただ、当時はイギリスと清朝の保守派が権益を巡り市場を支配していた時代。革命運動の浸透も困難だったようで、その頃の様子を今に残る中国語新聞が伝えている。
島北東端の海上に向かってそびえ立つのは、マレーシアに現存する最大の砦「コーンウォリス要塞」だ。英国統治時代の要塞で、1786年に英国東インド会社のフランシス・ライト総督が上陸した際に建築された。大砲は最大で17門が設置され、要塞の名は当時のインド総督だったチャールズ・コーンウォリスにちなみ名付けられた。
一通り史跡散策を終え宿周辺の旧市街地へ。「コムター」という名称の65階建て円形ビルがランドマークとしてそびえている。周囲に広がるのは、中華系の飲食店街。飲茶が有名だという老舗店に入り注文したが、なるほど開店から閉店まで常に満席が続く理由が分かった。辺りにはさまざまな中華系飲食店が広がっており、コアな観光客から入門客まで幅広い層を迎えることができそうだ。
外資進出盛ん。新たなチャンスも
マレーシア政府は1970年代以降、島南部のバヤン・レパス地区に外資を利用した工業振興地区を設置。電子・電機産業などの振興に務めてきた。この結果、今では日米など多くの外資系企業が進出。製造業と観光業が島の2大産業となっている。
島に居住する日本人約3500人のうち約2000人が企業等の駐在者とその家族(外務省海外在留邦人統計)、残りが永住者を含む長期滞在者だ。しかし、日系飲食店は数えるほどしかなく、ジョージタウン周辺でも数軒が点在するだけ。某高級ホテルの営業担当者が話していた「ペナンでは日系飲食店はこれからですね」という言葉が印象的だった。タイ・バンコクへの復路はペナン国際空港からの航空機を利用した。
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