白いラベルに鮮やかな黄金の獅子のマークでお馴染みのタイ国産ビール「ビア・シン(シンハ・ビール)」。
前回お伝えした「ビア・チャーン」登場まで半世紀以上にわたり独断場にあったタイを代表するビールだが、そのルーツについてはあまり知られていない。
実は生産元の財閥「ブンロート・ブリュワリー・グループ」はタイでは珍しい非華僑財閥。
十数年後には創業100年を迎える由緒正しき血筋なのだ。
タイを旅行あるいは出張で訪れる時、「とりあえず、シンハ」と注文するのが、大方の日本人ではなかろうか。
日本国内での知名度からすればそれも当然と言えようが、実はその認識はタイではもはや通用しない。
現在のシェアトップは同じブンロート社が製造する格安ビール(中価格帯ビールとも)の「ビア・リオ(レオ・ビール)」で、それに続くのが前回紹介したTCCグループ傘下「タイ・ビバレッジ」のビア・チャーンだ。
両者でシェアは85%以上に達する。シンハは5%程度でしかない。
背景にあるのが、タイにおけるビール業界の得意な事情だ。
インドシナ半島を英仏列強が植民地支配していたころ、欧州産ビールは高級舶来品としてタイにもわずかながら流通していた。
だが、価格は高く、庶民には高嶺の花。
「タイ人が飲めるタイビールを造ろう!」。
こうして始まったのが同社の試みだった。
ブンロート・ブリュワリー社は1933年、バンコク名家の出身プラヤー・ピロムパクディによって設立された。
プラヤーは官名の一つで、本名はブンロート・セータブットと言った。
社名は本名によっている。
父親はタイ詩の権威でラーマ6世から高い評価を受けた人物。
自らも文化に造形が深く、一時は教員も務めていた。
ところが、前述のようにタイ初の国産ビール開発の夢を立ち上げると、教師の座を捨て実業界へ。
当時は、驚きをもって受け止められたという。
英語が堪能だったブンロートは製材の輸出事業やチャオプラヤー川の船渡し事業で当面の財を築くと、いよいよ国産ビールの生産に着手した。
政府に掛け合い事業免許を取得すると、翌34年に工場を稼動、生産を開始した。
当時の販売価格は1本32サタン。
当時の国の下級吏員の初任給が30~40バーツの時代だった。
シンハのブランド名は、複数あった候補の中から最も消費者受けが良かったものを選んだ。
半世紀ほどは事実上、無風の時代が続いた。
外国産より遙かに安かったこともあって、シンハは爆発的に売れた。
シェアは常に80~90%を超えていた。
ようやくライバルらしい存在が現れたのは80年代近くになってから。
バンコク・メトロポリタン銀行(のちに国有化)を創業した名門華人財閥テーチャパイブン家が高級ビール「クラスター」を投入したあたりだった。
だが、この程度でシンハの支持基盤が揺らぐことはなかった。
「凋落」のきっかけは、現在もなお市場を二分して「ビール戦争」を続けているTCCグループの登場だった。
同グループは傘下のビア・タイ(タイ・ビバレッジの前身)を通じて95年、格安ビール「チャーン」を投入、市場の奪取に乗り出した。
97年の通貨危機で消費者が安価なビールに乗り換えたことも形勢を後押した。
95年の時点で80%超あったシンハのシェアは下降線をたどり、99年にはついにチャーンに首位の座を明け渡してしまった。
一方で、この間、政府は税収確保の見地からビールメーカーに重い酒税を課した。
増税は73年以降、3度に渡り、その都度、メーカーの経営を圧迫した。
ブンロート社においても例外ではなく、ビール製造に依存しすぎた体制を改めるきっかけとなった。
同社は現在、王冠や瓶メーカーをグループ内に採り入れ一貫生産を行っているほか、北部チェンライに専用の大麦畑を開設。
チェンマイにはモルト工場も建設した。
さらに近年は、食品・非アルコール事業や不動産事業など事業の多角化にも乗り出している。
2015年には、最大のライバルであるタイ・ビバレッジが4銘柄あったチャーン・シリーズを「クラシック」に集約。
10年ぶりとなるシェア奪還に意気込みを見せている。
これに対抗してブンロート社は一時実施した中瓶に特化し、大瓶を取り止める戦略を改め、全面対決でこれを迎え入れる。
昨年末には新ブランド「Uビール」を登場させ、新規需要を発掘しようとしている。
メインメニュー
教えてASEANコラム
お問い合わせ
人気記事ランキング
新着記事
国別で記事を探す
おすすめキーワードで記事を探す
ライター紹介