タイ最北部チェンライ県の山間部で日本蕎麦の原料となる玄蕎麦を栽培している日本人がいる。
6回目の年男、72歳を迎える井上和夫さん。
農地は計50ライ(1ライ=1600㎡)あり、稲の二期作を終えたばかりの田圃で近所の農民仲間も手伝って行われる。
17年目を迎えた今年も、香り豊かな大粒の玄蕎麦の実が実った。
話を聞きにチェンライ県を訪ねた。
Q:蕎麦の実を栽培することになったきっかけは何ですか。
A:もともと蕎麦を栽培しようと考えてタイに来たわけではないのです。
(タイ人の)女房の出身地が、たまたまこのあたり。
向こうに見える標高1200メートルほどのドイトン山で、王室プロジェクトが始まったのがきっかけでした。
プロジェクトの中に「日本の野菜を栽培しよう」という取り組みがあって、
知人から「蕎麦を栽培してくれないか」と頼まれたのです。
「日本で土いじりもしたことないのに」とも思ったのですが、頼まれれば断る理由もなく、「それじゃあ、やってみるか」ということで、気づいたら17年も経ちました。
Q:初めてのご経験、ご苦労はありませんでしたか。
A:失敗の連続でしたよ。
初めのうちは、花は咲くけど実がつかない。
どうしてだろう。
それが分かるまで2年もかかりました。
原因は二つ。
水と虫でした。
この辺りはもともと水が少ない地域。
特に11月ごろは全く降らない年も。
蕎麦は水対策が決め手なんです。
かといって、雨の多い雨期もダメ。
こまめに適度な水を与えないと、十分に生育しないことが分かりました。
もう一つ、森から交配役の虫が少なくなってしまったことも大きかった。
最近の農業は、こんな山間部にまで農薬が浸透していて、農地はすっかりと農薬まみれ。
おかげで害虫はおろか益虫もいなくなってしまったんですね。
そうなると実はつきません。
Q:近くの農家の方々の協力もあったとか。
A:重労働ですから一人ではとてもできません。
それに産業の少ないこの地域で、村人たちの仕事や現金収入にもなるのではないかと考えました。
女房の育った村ですし。
ただ、タイの農法は種籾を蒔いたら、後はほったらかしというのが当たり前。
日本のような手間暇かける農業を知りません。
せっかく水管理を教えても、覚えているのは単年限り。
翌年はまた一からの繰り返しでした。
Q:どのように商品化を進めたのですか。
A:商品化なんて、最初から考えていませんでした。
何しろ、頼まれて始めたことです。
ただ、3年目を過ぎるころから玄蕎麦が穫れるようになり、
「これ、どうしようか」ということになって、試しにバンコクの飲食店などに提供することにしたのです。
ところが、玄蕎麦を粉に挽きたくても石臼がない。
あちらこちら探し回ってどうにか石を確保。
手動の石臼を自作して何とか粉にしました。
Q:評判はどうでしたか。
A:バンコクにある日本料理店にまずは持ち込んだのですが、
「すごい!この品質のものがタイで手に入るのか」と高い評価を受けました。
日系の商社にも話をしたところ、飛びついてくれて。
「これで、いける」と目途がつきました。
当時、玄蕎麦の実は検疫で輸入がダメ。
粉に引いたものも1年前に輸入許可を取らねばならず、需要が読めませんでした。
こうした事情も追い風となりました。
その後は今も続く日本食ブーム。
おかげさまで今ではバンコクの和食店など20軒余りに卸しています。
Q:井上さんの蕎麦の特徴は。
A:日本蕎麦は、よく「3たて」と言いますが、注文を受けてから挽き立てを届けるようにしています。
少しでも良いものを、少しでも良い状態で。
種籾も3年ごとに見直しをして、劣化がしないようにしています。
品質の足りないものは、打ち粉にして本蕎麦には使用していません。
Q:そもそも、タイとの出会いは。
A:私は北海道厚岸郡浜岡町の出身で9人兄弟の末っ子。
貧しい時代で仕事もなく、20歳のころ職を求めて東京に出ました。
東京では船員学校に通ったり、水商売に就いたり。
銀行経営者の秘書兼カバン持ちもしました。
その後、30歳代で金融業に従事し、わずかながらも初めて財産を築きました。
タイに来たのは40歳になる直前のこと。
相次いで父と母、友人を亡くし、旅に出たのです。
その時に女房と知り合いました。
しばらくして、日本を引き払うことを決意。
1989年ごろタイに居を移しました。
Q:タイに来てみていかがでしたか。
A:都市部はまだしも、地方はとても「人間の生活」とは思えませんでした。
何とかしてあげたい。
女房の出身地ですし。
そんな思いを抱いて、腹をくくりました。
でもね、それが果たして良かったのか。
余計なお世話ではなかったか、と思うことも時々あるのです。
日本の価値観を押しつけているのではないかと。
「何と言う国か」と思う反面、動物的に生活することの魅力も感じる。
タイって、本当に不思議な国ですよ。
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