ベトナムでは、2016年に日本語が英語と同等の第一外国語として教育に取り入れられ、日本語教育に力を入れるベトナム人や企業が増えています。
今回は日本で教師を勤め、現在はダナンにある日本語学校「ココロ日本語教育センター」にて日本語教師、また、生徒のために、と先日「Kokoro Cafe」をオープンされた杉本麗次先生にお話を伺いました。
記者:ベトナム進出までの簡単な経歴を教えてください。
杉本氏:広島で38年間、高校と中学の国語教師をしていました。
記者:ベトナム進出のきっかけは何ですか?
杉本氏:ベトナムとは40年以上の関わりがありました。
大学受験の時に、国立の大学に受からなかったら働け、と親に言われていたので必死に勉強しました。
無事に広島大学に受かり、広島へ行った時に、今のように綺麗ではなく、援助や支援の得られていない被爆者の方を原爆スラムで目の当たりにしました。
その時に勉強ばかりで社会の問題に関わって来なかった自分に気づき、「何のために勉強しているのか、何のために勉強をしてきたのか」と考えるようになり、被爆者の救援運動に参加するようになりました。
同時に、ニュースで見るベトナム戦争の被害・加害の問題について考えるようになり、日本の加害の問題としてベトナムと向き合うようになりました。
そして、大学2年の1975年4月30日、南ベトナム解放(南北ベトナム統一)という歴史的瞬間を迎えました。
そこから大学の友人と「広島とベトナムをつなぐ広大生の会」を作り、ベトナム支援の団体として勉強会や支援を行ったりするようになったのがベトナムとの関わりのきっかけです。
当時ベトナムからの留学生は殆どいませんでしたが、ベトナムの戦傷孤児が4名、広島の病院で支援を受けることになり、そのサポートを少し手伝いました。
毎年広島で行われる「原水爆禁止世界大会」でベトナム代表団と交流したり、教師になった後も、日本ベトナム友好協会広島支部で留学生サポート、支援、文化交流のボランティアをしていました。
教員時代は「〜ねばならない」が口癖で、広島市教職員組合委員長や中学校の部活、生徒指導で帰宅が遅く、土日も必死に働いていました。
そんな時に妻が「自分のやりたいことをやった方がいい」と言ってくれ、教員を退職したらベトナムに行き、日本語を教えながら平和について考えて暮らしたい、と考えました。
記者:ベトナム進出前に準備したことは何ですか?
杉本氏:ベトナムへ来る5年前からお金の準備や、日本語教師のなるための資格取得・生活設計をしました。
また、ベトナム語をある程度勉強し、情報収集もしました。
記者:ハノイからダナンへ来たきっかけは何ですか?
杉本氏:ダナンへ来る前は2年間、ハノイ市内でも有名になっている「アキラセンター」という学校で校長(名ばかりですが)をしていました。
2年目の時に大使館の方に紹介され、ハノイの日本国際学校(日本式教育の幼稚園〜高校の一貫校)の立ち上げの手伝いを始めました。
理事長がベトナム農水省元副大臣・水利大学前学長の方で、週何回か翻訳などの手伝いをしていました。
3年目にはアキラセンターを辞めて日本国際学校の副校長になりました。
しかし管理職の仕事は困難も多く、やはり自分は教壇へ戻ろうと思った時に妻に相談したところ、「一旗揚げにベトナムへ行ったわけではないから、自分のやりたいことを素直にやってみればいい。」と背中を押され、今度は中部に行ってみよう!と思い、ダナンの日本語学校に日本語を教えに来ました。
記者:現在どの様な生徒がいらっしゃいますか?
杉本氏:小学生から社会人までのベトナム人の生徒が200名程います。
目的はそれぞれ、留学やベトナムの日系会社で働く方、趣味(日本に興味がある)の方です。
日本語教育を積極的に取り入れている現地IT会社の教育委託も受けており、日本の会社への研修のための教室も開いています。
記者:何故「Kokoro Cafe」を始められたのですか?
杉本氏:以前住んでいた地域が観光地化してしまい、もっと普通の静かな所で暮らしたいと思っていたところ、日本語センターの目の前の新築物件が空いていたのでこちらに越しました。
1階部分にスペースがあったので、授業の後に生徒たちがおしゃべりをしたり、日本の本を読んだり、生徒同士で寛ぐ場になればと思いカフェを始めました。
料金も学生に合わせて12,000VND(約60円)〜、飲み物やスイーツが楽しめる様に設定してあります。
学生はさらに20%割引です。
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