タイのプミポン・アドゥンヤデート国王(88歳、ラマ9世)が13日死去した。現役国家元首として世界最長、在位70年4カ月の任期は、一つの時代の終わりとしては余りにも大きい。このため市場では病状の不安定が伝えられた数日前から、特に日系を中心とした外資系企業の間で逝去後の不安を募らせる動きが広がっていた。だが、一夜明け、市場は通常通りの姿を見せるなど早くも不安は杞憂に終わろうとしている。一連の流れをどのように読む必要があったのかを振り返る。
事の発端は9日日曜日に王室庁が出した「健康状態が不安定」とする発表だった。これをきっかけにバーツが売られるなど市場で敏感な反応があった。だが、その後は病状も持ち直し小康状態で推移。プラユット暫定首相らも12日水曜日昼までは通常通りの公務をこなしていた。
再び変化があったのは、12日午後のことだ。プラユット首相はヘリで訪れていた東部チョンブリ県の視察を急遽中止しバンコクに戻った。この前後から国王が入院していたシリラート病院にも長男のワチラロンコン皇太子(64)や次女のシリントン王女(61)ら王族が次々に見舞いに訪れるなど動きが慌ただしくなった。首相が予定していた16日からのインド訪問も中止となった。
逝去したのは13日午後3時52分。まだ一般向けの発表は行われず、夕方近くになって暫定議会の「立法議会」が「重大案件」によって緊急招集されることが固まった。そして、午後7時、プラユット首相が全国民に向け緊急テレビ出演し、崩御を発表した。
注目すべきは、プラユット首相のこの時の発言だ。後継王位について述べた文脈の中で、首相は「(プミポン)国王は1972年12月にすでに(後継者を)指名している」と明言。暫定憲法下にあって歴代憲法の規定が準用されるとしながらも、ワチラロンコン皇太子の後継王位就任は既定路線との見通しを示したのだった。同日夜に開かれた立法議会でも皇太子に即位を要請する議決案が可決された。
私(筆者)がこの発言に特に注目するのは、7月7日付けの拙稿「【知らないと損するタイ進出情報】タイの王位継承問題」でも書いたように、プミポン国王治世下においては、長男のワチラロンコン皇太子ほか妹のシリントン王女に対しても王位継承権が授与されているという特異な事情と背景があるためだ。
タイの王室典範では王女の即位を禁じている一方で、1974年以降の歴代憲法では解釈上、それを可能としている。両者の間には明らかな齟齬があり、これがタイ国内の政治対立と相まって、ここ十数年もの間、国政を不安定な方向に導いてきた。
王位を誰が継ぐのかがはっきりしなければ、憲法上の齟齬を突いて一方の支持派が勢いを増すとも限らない。おそらく、そう考えたであろうプラユット首相は、そもそもが二重に授与されていた王位継承権の問題を72年12月の一点で捉え、「この時点で指名が行われた」としたところに凄みがあった。その後のシリントン王女への王位継承権授与を事実上無効ならしめたところに、政治家としての極意があった。
今回のプラユット首相の発言には、軍政下においてこれ以上の混乱を生じさせまいとする強いメッセージを読み取らずにはいられない。また、首相は同時に、国民に対し株式市場や貿易、投資といった経済活動の停滞を引き起こさないようにも求めており、王位の交代によってタイ経済の後退や混乱を招くことは故国王の本意ではないとする宰相としての強固な意志を発したとも読み取ることができる。
こうした意図を受けて、14日の企業活動は早朝から通常と変わりなく操業を開始している。朝の通勤時には黒い喪服姿が目立ったが、それでも工業団地内にある自動車の組立工場などでは午前8時から通常通りラインが稼働を続けている。為替も小規模ながらもバーツ高に揺れ戻し、タイ証券市場も一方的な下落傾向に歯止めがかかった。
しかし、その一方で残念な動きもある。12日午後以降、日本人が多く住むスクンビット地区などでは日系スーパーを中心に食料品や酒、日用品の買い占めが早くも始まった。崩御が伝えられた翌日夜には陳列棚がほぼ空となって、店側や他の客らを唖然とさせた。また、世界最大規模を誇るバンコク日本人学校でも、12日夜の時点では翌日以降の通常通りの授業実施を決めたものの、翌朝になって一転。登校した生徒3000人を全校集会に集め、国王に黙祷をささげるだけで、そのまま下校させた。
体験したことのない未知の領域に至った時、右往左往しながら同じ船に乗ろうとするのが日本人の特性である。「お化け」なんていないと分かっていながらも、合理的で科学的な思考を停止し、見えないものに怯えるのも日本人である。求められるものは確かな目と判断力、それだけであるのに。
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