ー 食材の焼き方はもちろん、素材の切り方や串の刺し方までこだわり抜いた本格串焼きが大人気の「大東京酒場」。鈴木社長が海外で飲食業に携わることになったきっかけとは?
高校時代からすし店、お好み焼き店、焼肉店などさまざまな飲食店でアルバイトをしていました。そのまま飲食店に就職し、厨房で修業を続ける日々。そんなある日、母の知人から「アメリカの飲食店で働かないか」という誘いをもらい、1986年に渡米しました。
ー 海外でのご経験はアメリカからのスタートだったんですね。
そうですね、幼少期からアメリカに憧れていたので、漠然と渡米したい願望はありました。働きはじめたアメリカ・シカゴにある割烹日本料理店「桜」では、料理人として認められるために賄いをアレンジしたりアクセントを加えたり、試行錯誤を繰り返しました。その結果、2年目で支店のすしバーを任されることに。3年後にはアメリカの永住権を取得したのですが、やはり「日本で生活がしたい」という思いがあり、帰国することにしました。
ー 帰国後も経験を生かして飲食店で就業されたのでしょうか?
いいえ、父が営む印刷会社を手伝うため、まずは取引先の印刷企業で修業をすることになりました。3年ほどたったころバブルが崩壊し、父が営む印刷会社が負債を抱えてしまったため、そちらに転職。昼夜、休日関係なく働きづめの日々を送りました。
ー 家業の印刷業界から飲食業界に戻ったきっかけを伺えますか?
友人の料理人が共同経営していたちゃんこ料理店「北の富士」の経営権を買い取ったことです。「北の富士」は友人とその経営パートナーで共同経営をしていたのですが、うまくいっていなかったようです。原因は友人の「経営目線のなさ」。経営パートナーから相談を受けたのですが、私の目から見ても友人は経営者としてもう少し勉強が必要だと感じました。友人を説得して経営権を買い取り、経営パートナーと共同経営をすることになりました。
ー 料理人ではなく、経営者として飲食の道に舞い戻られたんですね。
はい、1998年にはイタリア料理店を市ヶ谷(東京都千代田区)にオープン。物件は、「北の富士」でお世話になっていた酒販業者様に紹介していただきました。その後も順調に飲食店を経営していたところ、知人より海外出店のお話をいただき、そこから海外進出が始まりました。
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