バンコク中心部パトゥムワン交差点の一角に建つ「MBK(マーブンクロン)センター」。
東急百貨店のほか無数の携帯電話関連ショップが入居するそのビルの一部開業が始まったのは、今から30年以上も前の1985年のこと。
チャックリー王朝開祖200年を祝う記念事業としてMBKグループが総力を挙げて挑んだのだが、折からの株式不況などが原因となって計画は遅れに遅れた。
それでも客室数700のホテルを備えた複合商業施設の建設は、当時としては高い関心をもって受け止められた。
MBKグループの始祖は中国広東省出身の馬同政。
19世紀後半に職を求め、タイに渡ってきた華僑だ。当時のタイの最大の産業はコメの生産及び輸出。
中でも特別な設備を要する精米業がその中枢を占めていた。
ところが、この頃の精米業界は設備の供給を独占するヨーロッパ勢の独断場。
この中で彼が着目したのが、精米機の修理という仕事だった。
技術さえあれば、巨額の設備は不要の修理業。
こうして見習いの修理工から身を起こした同政は開業資金を蓄えると独立。
これが、グループの源流となっている。
同政の跡を継ぎ、事業を拡大したのが長男のマー(馬立群)だった。
彼は香港のインターナショナルスクールで学び、思考も合理的で国際的だった。
学業を終えて父の事業に携わると、当時としては東南アジア有数の規模となる巨大精米所をバンコクに建設。
一気に業界首位の地位を駆け上がっていく。
このころ、タイの精米業界は華僑によって事実上取り仕切られていた。
マーをめぐって特筆されるのが、華僑勢による寡占状態にあったとはいえ、個々の事業家によって乱立していた精米事業を、業界としてひとまとめにしたことだ。
同様に精米業で財をなしたワンリー家やブンスック家などにも打診。
1925年に業界団体であるタイ精米所協会を設立、自ら会長の職に就いた。
市場を席巻した精米所協会は、コメの生産や輸出などの関連産業にも大きな発言力を増していく。
コメの取引価格決定の主導権を握ったほか、輸出に対しても強い影響力を与えるようになった。
こうしてマーは会長職を続けながら、32年にはタイの華人社会を事実上取り仕切る中国商業協会の会長にも就任した。
その後、マーは海運会社や保険会社、銀行業にも進出、事業の多角化を進める。
そして、ついにピブーンソンクラーム首相率いる39年の戦時内閣で、タイ国営コメ会社の社長に抜擢。
絶対的な地位と権力を持つに至った。
41年にはタイに帰化し、ブーンクン姓を下賜された。
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