ティアムの商才は、戦後の市場が混乱していた段階で、いち早く「広告・宣伝」の効果に着目したことにあった。
当時の「広告・宣伝」の中心である新聞紙上に、積極的に自社商品の広告を展開。
同業他社からは「無駄な出費を」などと陰口を叩かれることもあったというが、この前代未聞の奇策に最も強く反応したのは、消費に飢えた末端の消費者たちだった。
例えば、当時、タイ国内の化粧品と言えば、ポーランドのユダヤ資本が興したマックスファクターが主流。
ところが、ティアムは「アジア人にはアジアの化粧品を」と大号令をかけると、大阪の化粧品販売ピアス社と独占販売契約を行い、瞬く間にタイ市場を席巻するに至った。
新聞紙上に積極的に広告を展開したほか、国内での販売員を大卒などの高学歴者から小中学校卒等の女性に一斉に切り替え、市場を奪い取ったのであった。
日本のワコールと組んで進出したブラジャー市場も同様だった。
70年代、タイの女性下着市場は欧米系や安価な地場系など群雄割拠の状況だったが、ティアムは化粧品販売で得たノウハウを駆使。
専用売場にタイでは初めてとなる試着室を設けるなど、顧客サービスに特化した販売策を展開。
広告の効果と相乗して瞬く間にトップシェアを勝ち取るに至った。
タイ初となる広告専門会社ファーイースト広告社は64年に設立されている。
彼の戦略は、消費・流通ルートの末端である「大衆消費財」に徹底的にこだわったことに尽きる。
「良い品をお客様へ」というモットーにかなうのであれば、相手がどこの資本であろうと積極的に事業に加わった。
相手先のブランドを丸ごと飲み込むことも厭わなかった。
その多くが地理的にも近く、当時、高度経済成長にあった日本の企業だった。
これまでにワコール、ライオン、明星、キューピー、ミズノ、イトキン、サッポロ、HOYA、森永など錚々たる日本企業との合弁事業化を果たしている。
「大衆消費財」戦略の重要なカギとなるのが、商品の豊富な品揃えである。
ティアムは事業の多角化を積極展開。
特定の商品を取り扱う部門を次々と独立させ、取扱商品を拡大させていった。
代表例として、高級ブランド品を扱うインターナショナル・コスメティック社(66年設立)、化粧品や下着、投資案件を担うニューシティー社(69年)、インスタント食品部門の中核企業、タイ・プレジデント・フーズ社(72年)、スポーツシューズ製造に特化したバンコク・ラバー社(74年)などがある。
中でもプレジデント社は「ママー」で知られる独自インスタント麺をヒットさせ成長を支えた。
タイの即席ラーメンと言えばサハというイメージを不動のものとさせた。
ティアムは6男2女の子宝に恵まれた。
子供たちが学業を終えると次々とグループ内に招き入れ、主要ポストに据えて一族経営を強めていった。
義理の弟のダムリーは番頭格に就いた後に独立し、新たな新興財閥サハユニオン・グループを形成していった。
サハ・グループも他の財閥と同様に、子女を主要な地位に就け一族経営を基礎としたのだった。
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