ダナン駅から歩いて5分程の日本語学校「さくら日本語センター」内に入ると、そこには綺麗な日本庭園が。
庭園の池に面した「さくらフレンズカフェ」は、食事からデザートまで楽しめるカフェです。
お値段も良心的で、まだ日本食店がダナンに少ない頃から私がお世話になっている場所です。
今回は「さくらフレンズカフェ」のパワフルな日本人オーナー、竹内みどりさんにお話を伺いました。
記者:日本〜ベトナム進出までの簡単な経歴を教えてください。
竹内氏:中学校の教員として働きながら、NGO団体「ふぇみん」の一員として活動していました。
1996年より「ふぇみん」がダナンの児童養護施設「希望の村」の支援を始め、当初は1年に1回子ども達に会うためにベトナムに来ていました。
2006年から希望の村の卒業生の自立支援を始めるため、ダナンに駐在するようになりました。
「ふぇみん」の有志によって2011年より「さくらフレンズカフェ」を、2013年より縫製工房「アートさくら」を始め、現在は一年の半分をベトナム、残り半分を日本で過ごしています。
記者:「ふぇみん」とはどんな団体ですか?
竹内氏:1946年第二次世界大戦直後、二度と戦争はしたくない、世の中を民主化しようという女性たちで始めたNGO団体です。
主に平和活動、ジェンダー、人権問題、環境問題等の活動をしています。
環境に負荷をかけない安心・安全な石けんや食品などの販売(ふぇみんのお店)、「ふぇみん婦人民主新聞」の発行などの事業も行っています。
記者:「ふぇみん」がベトナムへの支援を始めたのはどんなきっかけだったのですか?
竹内氏:1990年代はじめ頃、戦争後のベトナムが気がかりだったふぇみん会員の女性医師が「ベトナムに行きたい、ルートはないか?」とふぇみんに聞き、ピースボートを紹介、ダナンを訪れました。
その時に、在米ベトナム人の女性レ・リ・ヘイスリップさんに出会いました。
レ・リさんは「天と地」の著者でもあり、「希望の村」の創設者でもあります。
戦時中のダナンのキラ村で様々な体験を経て、命からがらアメリカに渡った彼女は、1986年のドイモイ政策後、在外ベトナム人の自由化によりベトナムに帰ってこられるようになりました。
そこで故郷の子供たちの貧しい状態を目の当たりにし、「なんとかしたい」と1993年に「希望の村」を立ち上げました。
その後レ・リさんが来日され、彼女の依頼で1996年に「ふぇみん」の「希望の村」支援がスタートしました。
現在「里親」と呼ばれる日本での支援者が150人くらいおり、「貧者の一灯」でお金を出し合い、生活と教育の支援をしています。
子ども達に会うために年に1回のツアーも催行しています。
*「希望の村」の里親になると、担当する子供の生活・教育支援に携わり、手紙やメールのやりとりなどをして子ども達と交流します。(「希望の村」URL参照)
記者:どうして「さくらフレンズカフェ」を始められたのですか?
竹内氏:私が初めてダナンに来た時は、ハン川に架かる小さな橋が一本しかなく、川を船で渡ったり、ストリートチルドレンも沢山いました。
2006年頃からダナンはどんどん発展していきましたが、活動のアドバイスをしてくれていたベトナム人に「ダナンは発展してきていても、まだ貧しいところまで手が届いておらず、職のない子供達が沢山いる。ベトナムは地縁・血縁で就職先が決まるので、「希望の村」の卒業生(高校卒業時に「希望の村」も卒業する)には自立支援が必要。」と意見をもらい、いつか生活支援から自立支援に切り替えたいと思っていました。
そんなとき、日本で行われた枯葉剤支援コンサートで、ベトナムの民族楽器ダンバオの音色を聴いて感動し、「自立支援は今だ。ベトナムへ行こう!」と決めました。
そして、58歳で教師を退職し、「希望の村」の卒業生たちの自立支援を目的にダナンに駐在することになり、卒業生の教育支援を行うことになりました。
その後、卒業生の働く場、日本語を学ぶ場、日越交流の場として「さくらフレンズカフェ」を始めました。
「さくらフレンズカフェ」で日本語を学んだ後、日系企業に進むか、日本に行く学生も多く、現在8人が日本にいます。(2年間「さくらフレンズカフェ」で日本語を学び、日本の大学で4年間社会福祉を学んだ後、介護系へ就職した卒業生もいます。)
「希望の村」は聴覚障害児の小学校でもあり、3割が聴覚障害者のため、手話を教えたり、縫製の職業訓練も行ったりしています。
2013年、聴覚障害の卒業生のために縫製工房をつくりました。
長年縫製をしてきた卒業生が縫製の先生をしてくれています。
日系企業さんの制服や、おみやげなどを作っています。
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